まず最初に書いておきたい。
僕は、育児をしていない父親を擁護したいわけではない。
ママが大変なのも、よく分かる。
実際、僕自身、育児に参加してみて、そのしんどさは想像以上だった。
それでも、ずっと引っかかっていることがある。
僕はちゃんと育児に参加している。
妻も育児の作業量に文句なしと言ってくれている。
それなのに、なぜか「父親になった実感」がなかった。
これって、僕だけの問題なのだろうか。
父親になったはずなのに、
どこか父親になった実感がないのか。
これが、ずっと引っかかっている。この引っかかりについて考えてみた。
妊娠・出産では「当事者じゃない」のは当然だった
正直に言うと、最初はこの違和感をうまく言葉にできなかった。
妊娠も、出産も、僕は体験していない。
できることといえば、病院について行ったり、手続きをしたり、必要なお金を用意したりすることくらいだった。
それは当たり前だと思っている。
身体的に経験できない以上、僕が「当事者」になれないのは当然だ。
ただ、あとから振り返って思う。
問題は、当事者になれなかったことそのものではなく、
その立場が“初期設定”として固定されたまま、育児にスライドしていったことだったのかもしれない。
出産直後から育児は始まる。
このタイミングでできた距離感や役割分担は、思っている以上にそのまま残りやすい。
「当事者じゃない側」からスタートした感覚が、
そのまま育児にも持ち越された。
そんな気がしている。
この家は「正しさ」が強すぎる
うちの妻や義実家は、医療の知識がある。
経験もあるし、データもある。
それ自体は、すごく心強い。
むしろ、恵まれていると思う。
ただ、その「正しさ」が強すぎると、
選択肢がほとんど残らなくなる。
そうなると、
僕は選ばなくなる。
選ばないまま進んでいくと、
それは少しずつ「自分の話」じゃなくなっていく。
これは、誰かが悪いという話ではない。
構造の問題だと思っている。
判断から外れる、という感覚
ずっと引っかかっていたのは、この感覚だった。
たとえば、
ミルクの量やタイミング、
おむつ替えの順番、
スワドルを使うかどうか。
どれも小さな判断だ。
最終的には、話し合って決めている。
納得もしている。
でも、なぜか、
「自分が決めた」という感じが残らない。
意見が通らなかった、という話ではない。
話し合いがなかった、という話でもない。
ただ、
判断の席に座っていなかったような感覚が残る。
この感覚が、
「参加しているのに、どこか他人事」という気持ちにつながっていた。
ここで出てきた仮説
ここまで書いてきて、ようやく一つの形が見えてきた。
僕がここで言っている「他人事」というのは、
冷たいとか、無関心という意味ではない。
たとえば、
自分の子なのに、どこか義実家の子みたいに感じてしまう。
そんな感覚だ。
逆に「自分ごと」というのは、
「ああ、これは間違いなく自分の子なんだ」と腹の底で感じられる状態のことだと思っている。
そして、僕の仮説はこうだ。
父親の実感は、
「やっている量」ではなく、
「決めているかどうか」で変わるのではと思った。
なぜ「決めること」が実感を生むのか
表現が難しいのだが、今の僕にはこれが一番しっくり来ている。
ここで言う「決める」とは、
意見を出して正解を当てることではない。
失敗するかもしれない選択を引き受けること。
間違えたら、自分の責任になると分かった上で、
それでも選ぶこと。
このプロセスを通ると、
その出来事は、
「起きたこと」から「自分の人生の一部」に変わる。
だから、実感が生まれる。
父親という立場は、いちばん楽な場所かもしれない
反発されるかもしれないが、ここで言っているのは、
「すべての父親が楽をしている」という意味ではない。
決定権を持たない立場に限った話だ。
決めないということは、
間違えなくていいということでもある。
それは、とても安全なポジションだ。
でも、その安全さと引き換えに、
実感は生まれにくくなる。
この違和感は「今の時代」特有なのかもしれない
ここまで書いていて、思ったことがある。
この違和感は、
僕個人の問題というより、
時代の問題なのかもしれない。
いわゆる昔の家族モデルでは、
役割分担はかなり明確だった。
夫は外で働く。
妻は家事と育児を担う。
良いか悪いかは別として、
少なくとも「誰が何をするか」は分かりやすかった。
今は違う。
共働きが当たり前になり、
父親も育児に参加する。
それ自体は、とても良い変化だと思う。
ただ、その一方で、
「誰が決めるのか」だけが、曖昧なまま残っている
ようにも見える。
やることは共有される。
でも、決める役割は共有されていない。
このズレが、
「参加しているのに、どこか他人事」という感覚を
生んでいるのではないか。
義父の話を聞いていると、
今ほど育児に関わっていたわけではなさそうだ。
それが当たり前だった時代の名残も、
きっとある。
では、その頃の父親たちは、
本当に父親の実感を持っていたのだろうか。
正直、分からない。
だから、僕はこう考えている
もしこの仮説が正しいなら、
父親になるとは、
「育児に参加すること」ではなく、
その判断を引き受ける立場に立つこと
なのかもしれない。
少なくとも、
僕にとっての「父親になる」とは、
他人事から自分ごとへ移動することだった。
この考えが正しいかどうかは分からない。
反論も、あるかもしれない。
ただ、今の僕には、
これが一番しっくり来ている。


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